NBA伝説の男たち

エルジン・ベイラーってどんな選手?史上最高のスモールフォワードの1人と言われた男の特徴やエピソードを紹介!

ロサンゼルス・レイカーズにおいて史上初の永久欠番となった背番号「22」を着用していたレジェンド「エルジン・ベイラー」。

1950年代〜60年代に活躍した選手であり、その名前こそNBAファンであれば誰もが聞いたことのあるものだと思いますが、実際にどのようなプレーをする選手だったのかを知っている方はかなり少ないのではないでしょうか。

 

後世の選手たちに大きな影響を与え、「エルジン・ベイラーがいなければジュリアス・アービングやマイケル・ジョーダンは現れなかっただろう」と言われるほどの影響力を持ったエルジン・ベイラーとはいったいどんな選手だったのでか?

この記事では、そんな疑問にお答えするべくエルジン・ベイラーのプロフィールやプレイスタイル、彼が歩んだNBAキャリアなどを詳しくご紹介します。

読み終わった時にはエルジン・ベイラーについてもっと知りたくなるようなワクワクする内容となっていますので、興味のある方はぜひ最後までご覧くださいね!

 

【プロフィール】エルジン・ベイラーってどんな選手?受賞歴や記録と共に紹介!

1950年代〜60年代にかけてロサンゼルス・レイカーズ(旧ミネアポリス・レイカーズ)でキャリアの全て(14シーズン)を過ごした生粋のレイカー「エルジン・ベイラー」。

輝かしいキャリアを歩んだ一方で、合計7度のNBAファイナル経験しながらも、1度もチャンピオンリングを勝ち取ることができないという不運に見舞われたことでも有名な選手ですね。

レイカーズの長い歴史において史上初のドラフト全体1位指名を受けた選手であり、ベイラーの着用した背番号「22」はレイカーズの永久欠番となっています。

キャリア通算で平均27.4点、13.5リバウンド、4.3アシストという驚異的な記録を残し、1977年にはバスケットボール殿堂入りを果たしたNBA創世期のレジェンドです。

 

【エルジン・ベイラーの受賞歴】

新人王(1959)

NBAオールスターゲーム出場:11回(1959〜1965,1967〜1970)

NBAオールスターゲームMVP:1回(1959)

オールNBA1stチーム:10回(1959〜1965,1967~1969)

NBA35周年オールタイムチーム

NBA50周年記念オールタイムチーム

 

エルジン・ベイラーのプレースタイルは?選手としての特徴を紹介

エルジン・ベイラーは身長196cmとそれほど恵まれた体型ではなかったものの、類稀な身体能力と「1000のムーブを持つ」と称されるほどに多彩な攻撃パターンで得点を量産した史上最高のスモールフォワードの1人です。

ジャンプ力が非常に高く、身長の割にがっしりした体格を持っていたことから、巨大なセンターたちにも当たり負けせずにリバウンドを奪取する能力も高い選手でした。

 

ダンクシュートやフックシュートなどのスキルは当時のNBAではあまり使用する選手がいなかったことから、ベイラーの画期的なプレイスタイルは後の「オールラウンダー」という新たな選手像が出来上がる際の基盤となりました。

その影響力は「エルジン・ベイラーがいなければジュリアス・アービングやマイケル・ジョーダンは現れなかっただろう」といわれるほどで、NBAの歴史を語る上では欠かすことのできない存在と言えるでしょう。

 

“エルジン・ベイラーの呪い”と言われた悲しき戦績

皆さんは“エルジン・ベイラーの呪い”という言葉をご存知でしょうか?

これは、史上最高のスモールフォワードと呼ばれながらも1度もNBA優勝を果たすことができなかったベイラーのキャリアに対する皮肉のようなもので、エルジン・ベイラーについて語る上で触れないわけにはいかない内容です。

 

“エルジン・ベイラーの呪い”はベイラーがNBAに入る前のシアトル大学時代から始まっており、ベイラー率いるシアトル大学はアメリカの大学全国大会であるNCAAトーナメントにおいて決勝に進出するもケンタッキー大学に敗れ準優勝に終わりました。

その後、ロサンゼルス・レイカーズに所属した長いキャリアの中で7度もNBAファイナルに出場しながら結局1度もNBA優勝は果たすことができず、さらにベイラーがシーズン途中に引退した途端レイカーズは怒涛の33連勝を記録し、そのままNBAチャンピオンの座を勝ち取ったのです。

NBAの長い歴史の中でも6回以上NBAファイナルに出場しながら1度もNBA優勝を果たしていないのはエルジン・ベイラーのみであり、今後も塗り替えることは難しいといわれている不名誉な記録の1つとなっています。

 

NBAまでの道のり

NBAでは永遠に語り継がれるレジェンドとしての地位を確立しているエルジン・ベイラーですが、NBAにたどり着くまでには多くの乗り越えなければならない苦難がありました。

ここでは少し、エルジン・ベイラーのNBAまでの道のりを簡単にご紹介します。

 

1934年という人種差別がまだ色濃い時代、ワシントンD.C.に住む貧しいアフリカ系アメリカ人の家庭に生まれたベイラーは、黒人というだけで公共の場で遊ぶことが許されず、10代になってようやく街中のコートでバスケットボールに触れる生活を送ることができるようになりました。

その後、地元のフェルプス高校に進学するも、十分な教育を受けていなかったベイラーは授業についていくことができず、さらに経済的にも厳しいという理由から中退せざるを得ない状況になり、新設されたピンガーン高校に編入することに。

編入後もバスケットボールを続けたベイラーはみるみる頭角を表し、高校卒業時には黒人としては史上初となるワシントンD.C.のトップ5選手の証「オールメトロポリタンチーム」に選出されるという偉業を果たします。

 

バスケの実力はあってもやはり学業がままならなかったベイラーは、学業との両立を重視する強豪校からのオファーを1つも受け取ることができず、最終的にはバスケでは無名校ながら奨学金が出るアイダホ大学に進学を決意します。

しかし、今度はアイダホ大学の奨学金縮小やバスケチームのコーチ解任などが重なり、ベイラーはまたも大学を中退しなければならなくなってしまったのです。

2度の中退を経験し、それでも夢を諦めたくなかったベイラーは、アマチュアチームでプレイを続けていたところを偶然にも全米で上位の実力を持つシアトル大学のスカウトの目に留まり、シアトル大学への編入が決定するという人生の転機を迎えます。

 

大きなチャンスを得たベイラーはシアトル大学で2年間プレーし、2年目にはチームのエースとしてシアトル大学をNCAAトーナメント決勝まで導き、最後はケンタッキー大学に敗れたものの大会MVPを受賞。

この活躍はNBAのスカウトの目に止まるには十分すぎるものであり、大学で優勝を果たせなかった事に未練を残しつつも、レイカーズの熱心な誘いよってNBAドラフトへのエントリーを決めたのでした。

 

NBA時代のストーリー

人種差別や2度の中退という困難を乗り越えNBAドラフトにエントリーするという波瀾万丈な人生を送った「エルジン・ベイラー」。

ここからは、そんなベイラーがNBAレジェンドに至るまでのストーリーをご紹介します。

 

レイカーズ入団、新人王を受賞

1958年NBAドラフト、全体1位指名を受けたエルジン・ベイラーはミネアポリス・レイカーズ(現ロサンゼルス・レイカーズ)に入団することになりました。

この時のロサンゼルス・レイカーズは低迷期にありましたが、ベイラーは新人ながらチームの絶対的エースとして躍動し、なんとリーグ最弱チームの1つであったレイカーズをほぼ独力でプレイオフ進出まで導いたのです。

 

ルーキーながらレギュラーシーズンでは平均24.9得点、15.0リバウンド、4.1アシストという成績を残したベイラーは、新人で唯一のオールスターに選出され、当然のように新人王を受賞。

さらにすごかったのはファンからの人気であり、これまでのバスケにはなかった重力を無視するかのようなダイナミックなプレイスタイルが多くのファンを魅了し、結果的にNBAというリーグの知名度上昇に大きく貢献することとなりました。

 

“王朝”セルティックスの分厚い壁に優勝を阻まれ続ける

キャリア1年目のベイラーは率いたミネアポリス・レイカーズ(現ロサンゼルス・レイカーズ)はレギュラーシーズンの勢いそのままにプレオフへと進出しますが、そこに立ち塞がったのがビル・ラッセル率いるボストン・セルティックスであり、この年はセルティックスの圧倒的な戦力のもとに1勝も挙げることができず敗れることになりました。

その後、本拠地をロサンゼルスに移し、新たなスター候補であるジェリー・ウェストを加えたレイカーズはベイラーとウェストを中心に強力なチームを作り上げ、1961–62シーズンに3年ぶりとなるNBAファイナルに到達。

しかし、ここでも立ち塞がったのはボストン・セルティックスであり、前回の対戦ほどの実力差はなかったものの前人未到の4連覇を果たしたセルティックスの牙城を崩すことができずに、第7戦までもつれ込む接戦の末敗退してしまいます。

 

そこから4年連続でレイカーズ対セルティックスのNBAファイナルが行われたものの、8連覇という偉業を成し遂げたボストン・セルティックスの熱い壁にことごとく阻まれたレイカーズにベイラーの怪我という不運が襲います。

怪我や年齢によって衰えを見せ始めていたベイラーのために、レイカーズは当時リーグ最高のセンターであったウィルト・チェンバレンを獲得し、悲願の優勝を狙いに行きました。

それでも結果はビル・ラッセルの11度のNBA優勝であり、この年を最後に引退したビル・ラッセルを相手にベイラーはついに1度も勝利することができなかったのです。

 

電撃引退とレイカーズ奇跡の優勝

ビル・ラッセル引退後、新たな王者を決めるべく全てのチームが動き出したNBAにおいて、レイカーズは以前ベイラー、ウェスト、チャンバレンのBIG3での挑戦を続ける決断をします。

怪我がちなBIG3を抱えながらもなんとか再びNBAファイナルに戻ってきたレイカーズでしたが、今度はエースであるウィリス・リードの名誉の負傷に奮起したニューヨーク・ニックスに敗北し、またもNBA優勝を逃すこととなってしまいました。

 

1970-72シーズン、これまで膝の怪我を押して出場していたベイラーでしたが、ついに限界に達してしまったことでシーズンわずか9試合で引退を発表することに。

長年チームを支えてきたレジェンドの電撃引退に火がついたレイカーズは、ベイラー引退の翌日からNBA記録、かつ北米プロスポーツ史上最長記録となる33連勝を記録し、そのままプレイオフでも他のチームを寄せ付けない強さでNBAを制覇。

残念ながらシーズン途中で引退してしまったベイラーに優勝リングは届きませんでしたが、弱小だったレイカーズを7度もNBAファイナルに進出する強豪へと生まれ変わらせた功績は偉大なものであり、エルジン・ベイラーは史上最も偉大なスモールフォワードの1人として語り継がれることになったのです。

 

まとめ

1950年代〜60年代のNBAにおいてレイカーズの伝説的な選手として活躍した「エルジン・ベイラー」。

個人としては輝かしい受賞歴を持ち、その実力は「史上屈指のスモールフォワード」と呼ばるほどのものでありながら、7度のNBAファイナル全てで敗退するという珍しいキャリアを送ったレジェンドでした。

 

また、NBAに入るまでに人種差別による不当な扱いや学業における不利を身をもって感じていたベイラーは、NBA選手として知名度をもつようになってからも人種差別に対して毅然とした態度で立ち向かっていた人物としても知られています。

レイカーズのメンバーとしてチャールストンへ訪れた際、黒人だからという理由でベイラーを含む黒人プレイヤーたちがホテルやレストランなどの利用を断られたことにショックを受けたベイラーは、チャールストンで行われたエキシビションベームに一切出場しなかったという話はかなり有名です。

 

NBAと人種差別の問題は非常に密接に関係していますが、ビル・ラッセルやエルジン・ベイラーをはじめとした数多くの黒人選手たちの尽力で現在のNBAが存在しているのです。

NBA選手としてはもちろん、アメリカ社会へも大きな影響を与えたという歴史的背景があるからこそ、エルジン・ベイラーという選手はこれほどまでに偉大な人物として語り継がれているのだと思います。

エルジン・ベイラーのプレー集は全て白黒の時代ですが、YouTubeなどには動画がありますので、興味のある方はぜひ探してみてくださいね!

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