こんにちは!
NBA好きブログライターのおしょうサンドです。
皆さん、NBA観戦を楽しんでいますか?
NBAは非常に魅力の多いリーグですので楽しみ方はファンの数だけあると思いますが、その一つが”推しチームを応援すること”ですよね!
推しチームが決まっていると、そのチームの成績、所属している選手の成長、ドラフトの順位、トレードの内容などイベントのたびに楽しみが増え、NBA観戦がより楽しいものになること間違いありません!
では推しのチームはどのようにして決めればいいのでしょうか?
その方法はズバリ、チームについてよく知ることです。
チームの歴史や文化、現在所属している選手や過去に所属していた選手などの情報を知れば、きっとあなたにあったチームが見つかるはずです。
そこで今回は、チームの歴史の1つである「永久欠番」についてご紹介していこうと思います。
永久欠番とは、バスケットボールやNBAの歴史において多大な功績を残してきた人物の使用していた背番号を、その人物の功績を称えそのチームにおいてはその人物以外が使用することができないようにしたものです。
永久欠番を知れば、そのチームの最も輝いてた時代を知ることができますよ!
今回ご紹介するチームは”サクラメント・キングス”です。
もちろん他の29チームについても同様の記事がございますので、ぜひそちらもごらんください!
それではティップオフ!!
サクラメント・キングスの永久欠番
それでは早速、サクラメント・キングスの永久欠番となっている番号とその番号をつけていた人物について見ていきましょう!
サクラメント・キングスでは11個の背番号を永久欠番としています。(サクラメント・キングスの選手10名+ビル・ラッセル)
1人ずつ詳しくご紹介していきます!
#1 ネイト・アーチボルド(Nate Archibald)
ネイト・アーチボルドは1970年にドラフト19位でシンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)に指名されNBA入りを果たした選手であり、キャリアを通じてリーグを代表するポイントガードとして活躍した選手です。
185 cmと非常に小柄ながらNBA史上唯一の得点王、アシスト王の同時受賞を果たした選手としても知られています。
ポジション:ポイントガード
在籍期間:1970年〜1976年
式典日:-
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 1回(1981年) |
NBAオールスター | 6回(1973年, 1975年, 1976年, 1980年〜1982年) |
NBAオールスターMVP | 1回(1981)年) |
オールNBA | ファーストチーム×3(1973年, 1975年, 1976年) セカンドチーム×2(1972年, 1981年) |
その他 | 得点王(1973年) アシスト王(1973年) |
#3 ミッチ・リッチモンド(Mitch Richmond)
ミッチ・リッチモンドはNBA4年目のシーズンから7シーズンの間サクラメント・キングスに所属した選手であり、低迷期にあったチームを長きにわたって支えたスター選手です。
キングスに所属した期間に6度のオールスター、5度のオールNBAチームへの選出をはたしており、ルーキーシーズンから10シーズン連続で平均得点が2桁以上という記録も持ち合わせています。
ポジション:シューティングガード
在籍期間:1991年〜1998年
式典日:2003年12月5日
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 1回(2002年) |
NBAオールスター | 6回(1993年〜1998年) |
NBAオールスターMVP | 1回(1995年) |
オールNBA | セカンドチーム×3(1994年, 1995年, 1997年) サードチーム×2(1996年, 1998年) |
その他 | 新人王(1989年) オールルーキーファーストチーム(1989年) |
#4 クリス・ウェバー(Chris Webber)
クリス・ウェバーは208 cm、111 kgという体格を持ちながらハンドリングに長け、ドリブルからのシュートやパスで攻撃を組み立てることができるリーグ屈指のパワーフォワードとして活躍した選手です。
サクラメント・キングスで全盛期の7シーズンを過ごし、その間の5度のオールスター、5度のオールNBA選出を果たしました。
ポジション:パワーフォワード
在籍期間:1998年〜2005年
式典日:2009年2月6日
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 0回 |
NBAオールスター | 5回(1997年, 2000年〜2003年) |
オールNBA | ファーストチーム(2001年) セカンドチーム(1999年, 2002年, 2003年) サードチーム(2000年) |
その他 | リバウンド王(1999年) 新人王(1994年) オールルーキーファーストチーム(1994年) |
#11 ボブ・デイヴィス(Bob Davies)
ボブ・ディヴィスは現代ポイントガードの先駆けのような存在であり、NBAで初めて平均アシスト数が5を超えた選手です。
それまでアシストはそれほど重要視されておらず、それゆえポイントガードというポジションの存在価値も軽視されがちだったNBAで、アシストの重要性を示しポイントガードの地位向上において大きな役割を果たしました。
1951年にはロチェスター・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)のNBA優勝にも大きく貢献しました。
ポジション:ポイントガード
在籍期間:1945年〜1955年
式典日:-
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 1回(1951年) |
NBAオールスター | 4回(1951年〜1954年) |
オールNBA | ファーストチーム×4(1949年〜1952年) セカンドチーム(1953年) |
その他 | アシスト王(1949年) |
#12 モーリス・ストークス(Maurice Stokes)
モーリス・ストークスは1955年にロチェスター・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)にドラフト2位で指名され、期待に応えその年の新人王を受賞。
翌年にはリバウンド王を受賞し、その後のロイヤルズの中核を担う選手に育っていくはずでした。
しかし、1957-58シーズンの最終戦でストークスはリバウンド争いで相手選手ともつれ、地面にたたきつけられる形で頭部を強打。
その後は一時復活したものの、プレーオフ1回戦のデトロイト・ピストンズとの対戦のために飛行機にて移動している最中に呼吸不全となり、病院に運ばれたものの昏睡状態となりました。
その後ロイヤルズは彼との契約を解除したため、巨額の医療費を抱えたまま昏睡状態で路頭に迷うこととなりましたが、ロイヤルズ時代のチームメイトで親友のジャック・トゥイマンの資金的な援助もあり何とか一命をとりとめることができました。
トゥイマンはNBA年俸のほとんどをストークスの治療にあてた上で足りない分は自身で働きに出るなどストークスを支えるために尽力し、1958年からは”モーリス・ストークス・ゲーム”と名付けられたチャリティーゲームを開催するなどしてストークスの治療費を募りました。
トゥイマンの行動は多くのスーパースター達をも動かし、モーリス・ストークス・ゲームにはビル・ラッセルやウィルト・チェンバレン、ジェリー・ウェスト、カリーム・アブドゥル=ジャバーといった伝説の選手たちも参加しています。
結果的にストークスは36歳で心臓発作を起こし死亡するまでの13年間を生き、聖フランシス大学のキャンパス内にある墓地へと埋葬されました。
この一連の事件は当時のNBA選手会の権力のなさを大きく露呈すると共に、現在の選手の労働条件を大きく改善するきっかけとなりました。
一方で黒人だったストークスと白人だったトゥイマンの関係性は人種差別問題に疑問符を投げかける大きな事例の1つとなっています。
ポジション:パワーフォワード/センター
在籍期間:1955年〜1958年
式典日:-
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 0回 |
NBAオールスター | 3回(1956年〜1958年) |
オールNBA | セカンドチーム×3(1956年〜1958年) |
その他 | リバウンド王(1957年) 新人王(1956年) |
#14 オスカー・ロバートソン(Oscar Robertson)
オスカー・ロバートソンは1960年代から1970年代を代表する選手の1人で、シンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)で10シーズン、ミルウォーキー・バックスで4シーズンを過ごした歴代でも屈指のポイントガードです。
ポイントガードとしては規格外のリバウンド力を有しており、得点、アシスト、リバウンドの3つの項目でシーズン通して1試合平均2桁以上を残す”シーズン平均トリプルダブル”をNBA史上初めて達成しました。
キャリアを通じて1度の優勝、12度のオールスター選出、11度のオールNBA選出など輝かしい成績を残しています。
ポジション:ポイントガード
在籍期間:1960年〜1970年
式典日:-
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 1回(1971年) |
NBAシーズンMVP | 1回(1964年) |
NBAオールスター | 12回(1961年〜1972年) |
NBAオールスターMVP | 3回(1961年, 1964年, 1969年) |
オールNBA | ファーストチーム×9(1961年〜1969年) セカンドチーム×2(1970年, 1971年) |
その他 | アシスト王×6(1961年, 1962年, 1964年〜1966年, 1969年) 新人王(1961年) |
#16 ページャ・ストヤコヴィッチ(Peja Stojakovic)
本名「プレドラグ・ストヤコヴィッチ」、NBA登録名「ページャ・ストヤコヴィッチ」は7シーズンをサクラメント・キングスで過ごしたクロアチア出身の選手であり、全盛期はリーグ最高峰のシューターとして知られていた選手です。
スモールフォワードをこなせる体格を持ちながら高い打点で高精度なスリーポイントを放つプレースタイルは非常に強力であり、3度のオールスター選出を果たすなどチームの主力として活躍しました。
ポジション:スモールフォワード
在籍期間:1998年〜2006年
式典日:2014年12月6日
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 1回(2011年) |
NBAオールスター | 3回(2002 年〜 2004年) |
その他 | スリーポイントコンテスト優勝(2002年) |
#21 ブラデ・ディバッツ(Vlade Divac)
ブラデ・ディバッツはサクラメント・キングスで5シーズンを過ごしたセンターであり、クリス・ウェバーやペジャ・ストヤコヴィッチらと共に低迷期にあったキングスを強豪に押し上げた中心選手の1人です。
またNBAにおいてヨーロッパ人選手史上初めてNBAでシーズンダブル・ダブルを達成した選手であり、ヨーロッパ人選手のNBA進出の先駆けとなりました。
ポジション:センター
在籍期間:1998年〜2004年
式典日:2009年3月31日
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 0回 |
NBAオールスター | 1回(2001年) |
その他 | オールルーキーファーストチーム(1990年) |
#27 ジャック・トゥィマン(Jack Twyman)
ジャック・トゥイマンは1955年にロチェスター・ロイヤルズからドラフト8位指名を受けNBA入りした選手であり、キャリアの全てをロイヤルズで過ごしながら低迷期にあったロイヤルズを支え続けたスター選手の1人です。
先述したモーリス・ストークスの事件で容赦無くストークスを解雇したチームは他の選手から不信感を抱かれることとなり、当時の中心選手が悉く移籍してしまいます。
その中でもトゥイマンだけが残り続け、ロイヤルズとストークスのために戦い続けました。
ポジション:スモールフォワード
在籍期間:1955年〜1966年
式典日:-
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 0回 |
NBAオールスター | 6回(1957年〜1960年, 1962年, 1963年) |
オールNBA | セカンドチーム×2(1960年, 1962年) |
その他 | 特になし |
#44 サム・レイシー(Sam Lacey)
サム・レイシーは1970年にドラフト5位でシンシナティ・ロイヤルズ(現サクラメント・キングス)に指名されてNBA入りを果たし、キャリアの大半となる11シーズンをロイヤルズで過ごした選手です。
センターとして特にディフェンス力に優れた選手であり、7シーズン連続で100ブロック、100スティールを記録した数少ない選手のうちの1人です。
ポジション:センター
在籍期間:1970年〜1981年
式典日:-
【受賞歴】
NBAチャンピオン | 0回 |
NBAオールスター | 1回(1975年) |
その他 | 特になし |
全30チームで永久欠番となった”#6 ビル・ラッセル”
NBAで前人未到の11度の優勝を果たした”ビル・ラッセル”はバスケットボールのみならずアメリカ史上最も偉大なアスリートの1人です。
ビル・ラッセル以前のNBAおよびアメリカのスポーツ界は白人中心の文化が根強く、黒人選手は迫害されていました。
しかし、ビル・ラッセルはその圧倒的な実力と実績を持ってファンを熱狂させ、NBA史上初の黒人のNBAスター選手となることで、アフリカ系アメリカ人選手の地位を向上させました。
また、現役中にも関わらずボストン・セルティクスにて選手権ヘッドコーチに就任し、アメリカ4大メジャースポーツ史上初の黒人ヘッドコーチとなりました。
彼の選手として、および公民権運動家としての功績を称え、2009年にファイナルMVPの正式名称を”ビル・ラッセル・NBAファイナルMVP”に変更されています。
また、2022年8月11日には同年7月31日に死去した彼に敬意を表し、背番号#6が30チーム全てで永久欠番になることが発表されました。
まとめ
今回は「サクラメント・キングスの永久欠番」についてご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか?
最初にもご紹介しましたが、他の29チームについても同様の記事がございますでぜひそちらの記事もご覧ください!
それではまた次の記事でお会いしましょう!