1980年代、リーグ最弱チームだったウォリアーズをプレイオフ常連の強豪に導いたレジェンド「クリス・マリン」。
彼が身につけた背番号「17」はゴールデンステイト・ウォリアーズの永久欠番となっています。
アメリカ代表“ドリームチーム”のNo.1スリーポイントシューターとして知られ、全盛期にはマジック・ジョンソンから「神が造りたもうた完全なる選手」とまで評された男はいったいどんな選手だったのか?
この記事ではそんなクリス・マリンについて、プレイスタイルや生い立ち、NBA時代のキャリアなど、彼に関する情報を詳しくまとめていこうと思います。
今までクリス・マリンを知らなかった方でもワクワクできる内容となっていますので、NBAレジェンドに興味のある方はぜひ最後まで読んでみてくださいね!
目次
クリス・マリンって何が凄いの?知っておきたい基本情報
ゴールデンステイト・ウォリアーズの“英雄”として語られる「クリス・マリン」。
身長201cm、体重98kgという恵まれた体格をもちながら、インサイド主体だった当時としては珍しい「シュート力が武器のスモールフォワード」として活躍したレジェンドです。
NBAで16シーズン(1985年〜2001年)に渡って活躍し続け、彼が着用した背番号「17」はウォリアーズの永久欠番にもなっているんですよ。
クリス・マリンがティム・ハーダウェイ、ミッチ・リッチモンドと共に結成した「RUN TMC(ラン ティーエムシー)」はNBAの歴史上でも屈指のオフェンス力を持ったトリオとしてファンの記憶に残っています。
キャリアでオールスターに5度選出、オールNBAチームにも4度選出されるなど、個人として記録にも記憶にも残る活躍をしたクリス・マリンは、NBA優勝こそ果たすことができなかったものの、後世に語り継がれるに相応しいレジェンドの1人と言えるでしょう!
クリス・マリンのプレイスタイル:高いシュート力持つ長身シューター
クリス・マリンといえば201cmという長身から繰り出される高確率のシュートが武器の“左利き”シューターという印象を持っている方も多いのではないでしょうか?
実際シュート力は非常に高く、NBAでも歴史上わずか9人か達成したことのないエリートシューターの証「50-40-90クラブ」にほぼ届きそうというシーズンを何度も過ごしています。
※50-40-90クラブ:フィールドゴール成功率50%以上、3ポイント成功率40%以上、フリースロー成功率90%以上の全てを同一シーズンで満たした選手が入ることができるクラブ
ただ、意外にもキャリア序盤はドライブで切り込むインサイドでの得点が主体の選手でした。
キャリア半ばで靭帯損傷という大怪我を負ったことをきっかけに自身のプレイスタイルをアウトサイド主体のもの変更した結果、リーグ屈指の成功率を誇るシューターへと進化していったそうです。
長身の左利きシューターというだけでもかなり貴重なのに、元々得意だったパスやドライブも武器になるわけですから、アウトサイドの重要性が高まった2010年以降のNBAで活躍していればさらに偉大なキャリアになていたかもしれませんね!
生い立ち:練習熱心な少年が大学MVPに
ウォリーアーズを中心に偉大なキャリアを歩んだクリス・マリン。
ここではまず、そんなクリス・マリンがどのようにしてNBAという世界最高峰の舞台にたどり着いたのかをご紹介しようと思います。
クリストファー・ポール・マリン(Christopher Paul Mullin)は1963年7月13日にニューヨーク州ブルックリンに住むバスケ好きな両親のもとに生まれました。
両親の影響で幼い頃からバスケットボールに触れてきたマリンは自然とバスケットボール選手としての道を目指し始めます。
飛び抜けた身体能力こそなかったものの学生時代から練習熱心な少年として有名だったマリンは、文字通り雨の日も雪の日も欠かさずに体育館にこもってシュート練習を続け、高校生の時点ですでにその世代のアメリカTOP5選手の証である「オールアメリカン」に選出されるほどの選手にまで成長しました。
アメリカ中の大学からスカウトを受けていたマリンでしたが、結果的に地元の強豪セント・ジョーンズ大学へ進学すると、1年生からスターターとして活躍を残します。
大学屈指のプレイヤーだったマリンは、大学3年生ながらロサンゼルス・オリンピックのアメリカ代表に選出され、あのマイケル・ジョーダンやパトリック・ユーイングらとともに圧倒的強さで金メダルを獲得。
この時マリンも決してスター選手たちのおこぼれをもらったわけではなく、マイケル・ジョーダンに次ぐチーム2位の平均1試合平均11.6得点を記録して勝利に貢献しているんだから驚きです。
オリンピックで刺激を受けたマリンは選手としてさらに成長し、大学4年時にはNCAAトーナメントにてセント・ジョーンズ大学を33年ぶりとなるファイナル4(全米ベスト4)に導く活躍を見せ、準決勝ではパトリック・ユーイング擁するジョージタウン大学に敗れたものの、アメリカ大学バスケ界のMVP賞とも言われているジョン・ウッデン賞を受賞。
マリンが大学4年間で打ち立てた総得点2,440点と1試合平均19.5得点は当時のセント・ジョーンズ大学の大学記録となりました。
輝かしい記録を打ち立て大学を卒業したマリンは、満を持して1985年NBAドラフトにエントリーしたのでした。
ゴールデンステイト・ウォリアーズ時代(1985年〜1997年)
さて、連取熱心な少年が大学バスケ界のスターへと成り上がったストーリーをご紹介させていただきましたがいかがでしたでしょうか?
ここからは、そんなクリス・マリンがNBA入りを果たし、語り継がれるレジェンドになるまでの話をお伝えしていきますよ!
ドラフト7位指名を受けるも新人王候補に
クリス・マリン1985年のNBAドラフトにて全体7位でゴールデンステイト・ウォリアーズに指名を受けNBA入りを果たすわけですが、この時マリンとウォリアーズはかなり運命的な巡り合わせを経験しています。
NBAドラフトは基本的に前年度の両立が低かったチームほど高い指名順位を獲得する確率が高くなる仕組み。
1984年のウォリアーズはリーグ最下位の成績であり、全体1位になる可能性が最も高かったにも関わらず、くじ運が悪く7位まで下がってしまったのでした。
1985年のNBAドラフトはパトリック・ユーイング、デトレフ・シュレンプ、チャールズ・オークリー、カール・マローン、ジョー・デュマースなどの後のレジェンドや名選手が数多くエントリーしていた年ですので、このくじ運の悪さは特に目立って報道されていたそうです。
全体7位で指名したクリス・マリンが後にウォリアーズの英雄と呼ばれるほどの選手になるとは、この時誰も思っていなかったでしょう。
ウォリアーズでのNBAキャリアをスタートさせたマリンは、後に永久欠番となる背番号「17」を選択。
学生時代から憧れていたボストン・セルティックスのレジェンド「ジョン・ハブリチェック」の背番号が17だったことが理由だったそうです。
マリンは周囲の期待をルーキーシーズンから上回る活躍を見せ、55試合に出場し1試合平均14得点を記録。
新人王はドラフト1位だったパトリック・ユーイングに譲る形となりましたが、将来チームの心臓になることを伺わせるスタートとなったのです。
アルコール依存症と恩師との出会い
大活躍のルーキーシーズンを終えたクリス・マリンは、キャリア2年目にしてシーズン全試合に先発出場するほどにウォリアーズというチームの中心選手へと成長していきます。
高確率なシュートを武器に平均得点を15.1得点と伸ばし、昨シーズン最下位だったゴールデンステイト・ウォリアーズを10年ぶりとなるプレイオフに進出に導くほどの活躍を見せたのでした。
ただ、迎えた3年目、純分満帆に見えたキャリアに大きな問題が発生します。
それが「アルコール依存症」。
練習熱心でバスケに真剣に向き合うマリンの真面目さが弱小チームでバスケを仕事と割り切っているチームメイトとの亀裂を産み、孤独に追い詰められたマリンは次第にアルコールに頼る生活を送るようになってしまったのです。
結果、マリンの体重は10キロ以上増量し、とてもNBA選手とはいえない体型に。
自分を許せなかったマリンは精神的にもバスケに向き合える状態ではなくなってしまったのだそうです。
この時マリンを救ったのが、当時はゴールデンステイト・ウォリアーズのゼネラル・マネージャーであり、後にヘッド・コーチとしてクリス・マリンと共にウォリアーズを復活させた恩師「ドン・ネルソン」でした。
ネルソンはマリンに寄り添い、彼に背中を押されたマリンは本格的なアルコール依存症の治療を開始。
1ヶ月半の治療の末に心身ともに元の状態を取り戻したマリンは、1988年1月についにコートへの復帰を果たしました。
まさにマリンの人生を変えたとも言えるドン・ネルソンがその翌年からウォリアーズのヘッドコーチに就任し、チームを大きく変えていくことになるのです。
“RUN TMC”の結成と解体
新ヘッドコーチ「ドン・ネルソン」に率いられたウォリアーズは大きな変化を遂げることとなりました。
まずはドン・ネルソンが得意としていた速攻主体で点を取りまくる戦術「RUN&GUN(ラン&ガン)」を採用。
キャリアハイとなる1試合平均26.5得点を叩き出したマリンを中心に高火力なオフェンスを展開したウォリアーズは、プレイオフにこそ届かなかったものの将来性の明るいチームへと生まれ変わったのです。
続いて1988年のNBAドラフト全体5位でミッチ・リッチモンドを、1989年ドラフト14位でティム・ハーダウェイを獲得し、3人を中心に走りまくって殴り勝つチームが完成。
チームの中核であった3人の名前の頭文字を取り「RUN TMC(ラン ティーエムシー)」と呼ばれ、リーグ最高のオフェンス力を有するトリオとして一世を風靡したのです。
しかし、チームとしてNBA優勝まではなかなか届かなかったウォリアーズは1992-92シーズンの開幕前にミッチ・リッチモンドを放出する賭けに出ることに。
レギュラーシーズンでは55勝27敗と成績を上げたウォリアーズでしたが、結局プレイオフでは1界戦負けを喫し、「RUN TMC(ラン ティーエムシー)」の解散と共に衰退の一途を辿っていくことになったのです。
“ドリームチーム”への参加と怪我による衰え
衰退するウォリアーズをよそに選手としての全盛期を迎えていたクリス・マリン。
その個人としての活躍が認められ、てバルセロナオリンピックにて大学生ぶりとなるアメリカ代表に選出されるという栄誉を得ます。
この年のアメリカ代表はマイケル・ジョーダン、マジック・ジョンソン、チャールズ・バークレーなどのNBAスターが揃い踏みした通称「ドリームチーム」が結成された年であり、この中に選ばれたことはクリス・マリンのキャリアのハイライトと言えるでしょう。
しかし、オリンピックで活躍し、キャリアの絶頂にあるマリンを襲ったのが「右親指のじん帯断裂」の大怪我でした。
この怪我をきっかけに、それまで健康だったマリンは続け様に起こる怪我との戦いに臨んでいくことになります。
膝、ハムストリングと怪我が続いたマリンは次第に衰えを見せ始め、ウォリアーズもチームの新たなスター「ラトレル・スプリーウェル」が頭角を表し始めていたことで世代交代を決断。
久しぶりに健康な状態で79試合に出場できた1996-97シーズンがウォリアーズ最後の年となり、インディアナ・ペイサーズへの移籍が決定しました。
インディアナ・ペイサーズ時代(1997年〜2000年)
移籍先のインディアナ・ペイサーズでクリス・マリンを待っていたのはかつてドリームチームで共に戦ったボストン・セルティックスのレジェンド「ラリー・バード」でした。
選手を引退し、ヘッドコーチとしてインディアナ・ペイサーズを率いていたバードがマリンに求めたのはベテランとしてチームを支える働き。
すでにレジー・ミラーという絶対的なエースを抱えたペイサーズにおいて、衰え始めていたマリンを主力として扱う余裕はなかったというわけですね。
ただ、それでもマリンは持ち前の粘り強さで練習を続け、高精度なシューターとしてチームに貢献。
インディアナ・ペイサーズには3シーズン在籍したわけですが、1つ代表的な活躍をしたシーズンを挙げるなら1997-98シーズンでしょう。
ペイサーズは58勝24敗というイースタン・カンファレンス2位の好成績でプレイオフ進出を決め、プレイオフも順当に勝ち上がってイースタン・カンファレンスの決勝戦を迎えます。
相手はマイケル・ジョーダン率いる3連覇目前のシカゴ・ブルズでしたが、インディアナ・ペイサーズはなんと第7戦にまでもつれ込む総力戦を展開。
残念ながら最後はブルズに敗れてしまいましたが、マリンは伝説的なチームを追い詰めた強豪を見事に支えてみせたのでした。
古巣ウォリアーズでの引退(2001年)とその後
インディアナ・ペイサーズでの3シーズンを終え、キャリアを終える場所としてクリス・マリンが選んだのはドラフトからキャリアの多くを過ごした古巣ゴールデン・ステイトウォリアーズでした。
2000-01シーズンの1シーズンのみの復帰となりましたが20試合に出場し、チームのレジェンドの最後の勇姿をファンに見せたのち、現役生活に幕を下ろしたのです。
現役引退後、クリス・マリンは解説者やチームの相談役、ゴールデンステイト・ウォリアーズのGMなどを勤めたのち、母校セント・ジョーンズ大学のヘッドコーチに就任。
大学のヘッドコーチを4シーズン勤めたのち、現在はNBAのテレビ解説者として活躍中です。(2026年2月22日時点)
アルコール依存症や度重なる怪我など、いくつもの困難を乗り越えて歩んだ偉大なキャリアはファンの心に深く残っています。
2011年にはバスケットボール殿堂入り、2012年には背番号「17」がウォリアーズの永久欠番となりましたが、まさにレジェンドと呼ぶに相応しいキャリアだったと言えるでしょう。
クリス・マリンのキャリアスタッツ
最後に、クリス・マリンのキャリア・スタッツを「レギュラーシーズン」と「プレーオフ」とに分けてご紹介します。
レギュラーシーズン(1985-86シーズン〜2000-01シーズン)
| シーズン | 年齢 | チーム | 出場試合 | 出場時間 | 得点 | リバウンド | アシスト | FG確率 | 3PT確率 | FT確率 | スティール | ブロック | TO |
| 85-86 | 22 | GSW | 55 | 25.3 | 14.0 | 2.1 | 1.9 | 46.3% | 18.5% | 89.6% | 1.3 | 0.4 | 1.4 |
| 86-87 | 23 | GSW | 82 | 29.0 | 15.1 | 2.2 | 3.2 | 51.4% | 30.2% | 82.5% | 1.2 | 0.4 | 1.9 |
| 87-88 | 24 | GSW | 60 | 33.9 | 20.2 | 3.4 | 4.8 | 50.8% | 35.1% | 88.5% | 1.9 | 0.5 | 2.6 |
| 88-89 | 25 | GSW | 82 | 37.7 | 26.5 | 5.9 | 5.1 | 50.9% | 23.0% | 89.2% | 2.1 | 0.5 | 3.6 |
| 89-90 | 26 | GSW | 78 | 36.3 | 25.1 | 5.9 | 4.1 | 53.6% | 37.2% | 88.9% | 1.6 | 0.6 | 3.1 |
| 90-91 | 27 | GSW | 82 | 40.4 | 25.7 | 5.4 | 4.0 | 53.6% | 30.1% | 88.4% | 2.1 | 0.8 | 3.0 |
| 91-92 | 28 | GSW | 81 | 41.3 | 25.6 | 5.6 | 3.5 | 52.4% | 36.6% | 83.3% | 2.1 | 0.8 | 2.5 |
| 92-93 | 29 | GSW | 46 | 41.3 | 25.9 | 5.0 | 3.6 | 51.0% | 45.1% | 81.0% | 1.5 | 0.9 | 3.0 |
| 93-94 | 30 | GSW | 62 | 37.5 | 16.8 | 5.6 | 5.1 | 47.2% | 36.4% | 75.3% | 1.7 | 0.9 | 2.9 |
| 94-95 | 31 | GSW | 25 | 35.6 | 19.0 | 4.6 | 5.0 | 48.9% | 45.2% | 87.9% | 1.5 | 0.8 | 3.7 |
| 95-96 | 32 | GSW | 55 | 29.4 | 13.3 | 2.9 | 3.5 | 49.9% | 39.3% | 85.6% | 1.4 | 0.6 | 2.2 |
| 96-97 | 33 | GSW | 79 | 34.6 | 14.5 | 4.0 | 4.1 | 55.3% | 41.1% | 86.4% | 1.6 | 0.4 | 2.4 |
| 97-98 | 34 | IND | 82 | 26.5 | 11.3 | 3.0 | 2.3 | 48.1% | 44.0% | 93.9% | 1.2 | 0.5 | 1.4 |
| 98-99 | 35 | IND | 50 | 23.6 | 10.1 | 3.2 | 1.6 | 47.7% | 46.5% | 87.0% | 0.9 | 0.3 | 1.2 |
| 99-00 | 36 | IND | 47 | 12.4 | 5.1 | 1.6 | 0.8 | 42.8% | 40.9% | 90.2% | 0.6 | 0.2 | 0.6 |
| 00-01 | 37 | GSW | 20 | 18.7 | 5.8 | 2.1 | 1.0 | 34.0% | 36.5% | 85.7% | 0.8 | 0.5 | 1.0 |
稀代の名シューターとして知られるクリス・マリンですが、インサイド主体だった時代の流れも相まってキャリア前半はあまり3ポイントシュートを打っておらず、確率も安定していませんでした。
転換期となったのは1992-93シーズンの「右親指のじん帯断裂」であり、怪我によって運動能力の低下を余儀なくされたことで、NBAに生き残るためにシュート力向上に取り組み確率が安定。
その後はキャリアを終えるまでずっと高い確率を維持し続けています。
また、シューターとしても評価が高い反面ディフェンスに難があると思われがちなマリンですが、実はスティールが比較的多かったのも知っておきたいポイント。
キャリア平均スティール数は1試合あたり1.6回を記録しており、その長い腕で相手のボールをカットする能力には長けていた選手だったのです。
プレイオフ(計8回出場)
| シーズン | 年齢 | チーム | 出場試合 | 出場時間 | 得点 | リバウンド | アシスト | FG確率 | 3PT確率 | FT確率 | スティール | ブロック | TO |
| 86-87 | 23 | GSW | 10 | 26.2 | 11.3 | 1.5 | 2.3 | 50.0% | 75.0% | 75.0% | 2.3 | 0.2 | 1.6 |
| 88-89 | 25 | GSW | 8 | 42.6 | 29.4 | 5.9 | 4.5 | 54.0% | 12.5% | 86.6% | 4.5 | 1.4 | 4.0 |
| 90-91 | 27 | GSW | 8 | 45.8 | 23.8 | 7.3 | 2.9 | 52.7% | 69.2% | 86.0% | 2.9 | 1.5 | 3.1 |
| 91-92 | 28 | GSW | 4 | 42.0 | 17.8 | 3.0 | 3.0 | 42.9% | 33.3% | 92.9% | 3.0 | 0.5 | 2.0 |
| 93-94 | 30 | GSW | 3 | 45.0 | 25.3 | 4.7 | 3.7 | 58.8% | 50.0% | 90.9% | 3.7 | 1.7 | 2.3 |
| 97-98 | 34 | IND | 16 | 25.8 | 8.9 | 3.6 | 1.4 | 46.0% | 38.5% | 85.7% | 1.4 | 0.6 | 1.5 |
| 98-99 | 35 | IND | 13 | 21.8 | 9.5 | 1.5 | 1.2 | 41.0% | 40.0% | 87.0% | 1.2 | 0.2 | 1.5 |
| 99-00 | 36 | IND | 9 | 10.0 | 3.4 | 1.6 | 0.6 | 47.6% | 25.0% | 81.8% | 0.6 | 0.1 | 0.4 |
弱小だったウォリアーズを一時プレイオフの常連まで押し上げたクリス・マリン。
特にティム・ハーダウェイやミッチ・リッチモンドらとともに速攻を多用するスタイルで点を取りまくった「RUN TMC(ラン ティーエムシー)」の時代は、数字だけ見てもマリン自身の全盛期と言えるでしょう。
ただ、時代的にはマジック・ジョンソン率いるレイカーズやチャールズ・バークレー要するフェニックス・サンズなど、歴史に名を残すような選手たちがひしめき合っていたため、なかなかプレイオフでの目覚ましい結果を残すことはできずに終わっています。
キャリア終盤はインディアナ・ペイサーズでベンチからの役割が増えたため、スタッツ面だけで言えばかなり控えめな数字に落ち着いています。
出場時間こそ減ったものの、その短い時間でも高い得点効率でシュートを決めている点はさすが名シューターと言えるでしょう。
まとめ
今回はゴールデンステイト・ウォリアーズの英雄、クリス・マリンについてまとめました。
アルコール依存症に苦しみながらも、恩師に救われ迎えた全盛期。
度重なるけがによって運動能力は衰えたものの、ベテランとしてチームを支えたキャリア晩年期。
順風満帆と呼べるキャリアではありませんでしたが、弱小チームをプレイオフ常連にまで押し上げたという実績は、ウォリアーズの英雄として語り継がれるには十分でしょう。
個人的には、プレイスタイルを変えられずに衰えてからのキャリアを棒に振るスター選手も多い中、持ち前の熱心さでシュート力を向上させ、長くチームに貢献し続けた姿がとてもかっこいいなと思います。
クリス・マリンのプレーは見たことがない方も多いと思いますので、興味のある方はぜひYouTubeなどで動画を見てみてくださいね!